近世日本の美人画

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1991年から4年間に渡り、歯科の専門誌に『美の追究』というタイトルで、当院顧問の稲葉繁が、審美歯科について連載させていただいておりました。
当院の審美歯科治療は、すべて、このコラム『美の追究』を原点としております。
私たちが考える、審美歯科は、歯を白くするだけの技術ではなく、もっと根本的な審美の法則に基づいております。
このブログを読んでいただいている読者の方にお伝えすることが出来ればと思います。
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◆鏑木清方に見る「美人画」
清方は明治11年、まだ江戸の面影を濃く残した東京神田佐久間町で生まれ、下町に育ち「いき」の美意識を受け継いだ江戸っ子です。
この「いき」とは江戸時代後期、下町庶民の間に生まれた美意識であり、その美学的な意味は「やぼ」に対する語で、江戸庶民の連帯感が生み出した心意気でもあり、媚態、意気地、諦めの3要素が重なり、「粋」「雅」「通」に関連する複雑な美意識とされています。
清方は、この「いき」と「文人」という一見相反する世界を融合させ、しかも明治以来の休息な文明開化でいたずらに欧風化し振り落していった伝統や良俗を、失われた側に立って、絵と文で語り伝えようとした画家です。
江戸の鎖国攘夷の時代から開港へと変貌していくにつれて、日本は欧米文化を吸収するようになり、絵画の面にも浮世絵の伝統を受け継ぎながらも、大きな変革を生じてきました。
江戸時代の浮世絵が生んだ「美人絵」も、明治になって「美人画」と呼ばれるようになりました。美しい女性を美しく描くという「美人画」の根本理念は世界に共通するものだと思いますが、その時代の流行的風俗を典型的な美女に託して描くという理想化された女性像、つまり「美人画」は日本で独自の発展を遂げたもので、外国にもあまり例がないでしょう。
かつて浮世絵の画家たちが女性美を官能美追求に絞りがちであった点を修正しながら、さらに新鮮な時代感覚や文学性、叙情性
を加えつつ、品位あるものにし、芸術的にも深い内容を持たせるようになりました。
清方の美人画は、このようなことを考えた東京における美人画の典型が絵画かされたものといえるでしょう。